国立競技場にサブトラックがない理由と真相|世界陸上と常設化の壁
日本スポーツの総本山として威容を誇る国立競技場。2020年東京五輪のメインスタジアムとして建設され、記憶に新しい2025年の東京世界陸上でも数々の名勝負の舞台となりました。しかし、この巨大なスタジアムには開場当初から現在に至るまで、陸上界を悩ませ続ける決定的な欠陥が横たわっています。それは、競技場に不可欠とされる「サブトラック」が常設されていないという事実です。
トップアスリートが本番直前にウォーミングアップを行うサブトラックが存在しないスタジアムは、国際基準において極めて異例の存在と言わざるを得ません。なぜ数千億円規模の国家プロジェクトでありながら、サブトラックの常設は見送られたのでしょうか。そして大規模大会のたびに繰り返される「仮設トラック」の運用にはどのような歪みが生じているのか。関係者への取材や各種資料をもとに、その真相と現在の到達点を徹底検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:国立競技場にサブトラックがない最大の要因は、神宮外苑周辺の厳しい敷地制約と天文学的な用地取得・整備費用にある。
- 要点2:サブトラック不在により平時は「第1種公認」を満たせず、2025年世界陸上でも神宮外苑軟式野球場への仮設整備で急場をしのいだ。
- 要点3:球技専用化構想の撤回を経て陸上トラックは残されたものの、恒久的なサブトラック確保の道筋はいまだ立っていない。
【疑問】なぜ国立競技場にサブトラックがないのか?常設化が見送られた決定的な理由
国立競技場の敷地を訪れると、周囲を明治神宮外苑の緑豊かな木々や首都高速道路、明治公園などに囲まれており、広大な余剰スペースがほとんど残されていないことが一目でわかります。サブトラックが作られなかった背景には、都市計画上の物理的限界と、旧計画白紙撤回に伴う予算圧縮という2つの強い制約が存在していました。
本来、日本を代表する陸上競技場であれば、メインスタジアムの隣接地に400mトラックをもう1面確保するのが常識です。しかし、神宮外苑地区は都市公園法や風致地区の指定を受けており、周辺土地の多くは明治神宮が所有する私有地です。恒久的なサブトラックを設けるためには、広大な神宮外苑の土地を買い上げるか長期借地契約を結ぶ必要がありましたが、民間宗教法人の所有地を強制収用することは法的手続き上も現実的ではありませんでした。
さらに決定打となったのが総工費の高騰問題です。当初採用されたザハ・ハディド氏のデザイン案は、見積もり建設費が2,520億円まで膨れ上がり、世論の激しい批判を浴びて2015年に白紙撤回されました。その結果、再コンペを経て採用された隈研吾氏らの現スタジアム案では、徹底的なコスト削減が至上命題となったのです。敷地外に恒久サブトラック用地を確保する予算などどこにも残されておらず、「大会時のみ仮設で対応する」という苦肉の妥協案が選択されました。
第1種公認とワールドアスレティックス基準の壁|サブトラック不在がもたらす致命的制約
サブトラックがないという事態は、単に「ウォーミングアップがしづらい」という選手側の利便性だけの問題にとどまりません。競技場としての法的な格付けに直結する深刻な課題です。
日本陸上競技連盟(JAAF)が定める競技場公認規則において、国際大会や日本陸上競技選手権大会を開催できる「第1種公認陸上競技場」の条件には、メインスタンドやトラックの仕様だけでなく、「競技場に近接した全天候舗装の第3種公認相当(400m、6レーン以上)のサブトラックを有すること」が明記されています。また、世界陸連(ワールドアスレティックス=WA)のスタジアム基準(Class 1)においても、近接するウォーミングアップ施設の存在は絶対条件とされています。
つまり、国立競技場は平時の状態では第1種公認の要件を満たすことができず、原則として日本選手権などの大規模な陸上大会を単独で開催することができません。巨費を投じて建設された国立競技場でありながら、トラック競技の最高峰レースを日常的に開催できないという構造的矛盾を抱え続けることになったのです。
「代々木公園で代替」はなぜ頓挫したのか?浮上した候補地と現実の距離
常設サブトラックの建設が難航する中で、かつて有力な打開策として浮上したのが「近隣施設での代替案」でした。その筆頭候補に挙げられたのが、渋谷区にある代々木公園陸上競技場(通称:織田フィールド)の活用です。
織田フィールドはすでに400mトラックを備えた第3種公認施設であり、ここを改修してサブトラックとして位置付ければ、神宮外苑に新たな土地を確保する必要がなくなると期待されました。しかし、この代替案は最終的に採用されませんでした。最大の障壁となったのは、スタジアム間の「物理的距離」です。
国立競技場から代々木公園までは直線距離で約1.5km、実際の道路を通ると約2.5km離れています。車で移動しても片道10〜15分、混雑時には20分以上を要します。選手が召集所(コールルーム)に入る直前まで身体を温め、スパイクを履き替えて集中を高めるウォーミングアップエリアとしては、あまりにも離れすぎていました。国際大会の現場では、招集時間の数分前まで入念な調整を行うのがトップ選手のルーティンであり、長距離のバス移動を挟む運用はアスリートファーストの観点から完全に失格と判断されたのです。
揺れた「球技専用化」構想の撤回と東京2025世界陸上で見せた仮設サブトラックの現実
サブトラック不在の矛盾を解消する手段として、政府とスポーツ庁が一時本気で進めようとしたのが「球技専用化」でした。2017年の関係閣僚会議において、大会終了後は陸上トラックを撤去して観客席を増設し、サッカーやラグビーの専用スタジアムへ改修したうえで民間運営権(コンセッション)を売却する方針が決定されたのです。「サブトラックがないなら陸上を諦め、収益性の高い球技場にすればよい」という極端な割り切りでした。
しかし、この方針は陸上界の猛反発を招いただけでなく、試算の甘さが次々と露呈します。トラック撤去と観客席増設に伴う改修費用が数百億円規模に達すること、さらに2025年世界陸上の東京招致が決まったことで、状況は一変しました。莫大な費用をかけてトラックを壊し、世界陸上のために再びトラックを敷き直すことなど不可能です。結果として球技専用化の方針は事実上撤回され、トラックを維持する方針へと舵が切り直されました。
こうして迎えた2025年世界陸上東京大会では、東京五輪と同様の手法が取られました。競技場東側に隣接する神宮外苑軟式野球場を一時的に閉鎖し、人工芝や土の上にアスファルトを敷いてウレタン舗装を施す神宮外苑仮設サブトラックの再設置です。大会期間中の数週間のためだけに、設置と撤去を合わせて数十億円規模の費用を投じる「作っては壊す」手法が再び繰り返されることになりました。
【2026年の現在地】新国立競技場のサブトラック問題と今後の運営モデル
世界陸上を無事に終えた2026年現在、国立競技場周辺の景観は再び平時の姿へと戻っています。仮設サブトラックとして利用されていた軟式野球場は原状回復工事を経て草野球のグラウンドへと復元され、メインスタジアムの隣には再び「サブトラックが存在しない日常」が訪れました。
現在、スタジアムの運営権は民間事業体への委託が進められていますが、このサブトラック問題は将来の収益モデルにも暗い影を落としています。コンサートやサッカー日本代表戦、Jリーグの大規模マッチなどでは高い稼働率を誇る一方で、陸上競技場としての稼働率は依然として限定的です。日本陸連公認の主要大会を開催しようとするたびに、神宮外苑側の野球場や広場を借り上げて仮設トラックを設置するか、公認規格を緩和した変則的な運用を模索せざるを得ません。
神宮外苑地区全体の再開発事業が進む中でも、常設の陸上トラックを新たに組み込む計画は盛り込まれておらず、国立競技場が「真の陸上スタジアム」として恒久的な第1種公認を取得する見通しは、現時点でも立っていません。
【国立競技場のサブトラック問題】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:サブトラックがないのに、なぜ世界陸上やオリンピックを開催できたのですか?
A1:隣接する神宮外苑軟式野球場のスペースを大会期間限定で借り上げ、巨額の予算を投じて仮設の全天候型400mトラックを建設したためです。大会終了後に解体・撤去して野球場に戻すという条件で、国際機関(IOCやワールドアスレティックス)から特例的な承認を得て開催しました。
Q2:なぜ設計段階で地下やスタジアム内部にサブトラックを作らなかったのですか?
A2:400mトラックをすっぽり収める地下空間を掘削・建設する場合、莫大な土木工事費用と地下水対策が必要になり、予算枠を大幅にオーバーするためです。また、排気ガス換気や採光、避難動線の確保など建築基準法上の難度も極めて高く、現実的な選択肢になり得ませんでした。
Q3:仮設サブトラックの設置・撤去には毎回どれくらいの費用がかかるのですか?
A3:大会規模や地盤対策によって異なりますが、一般的に仮設トラックの造成、舗装、照明・テント等の付帯設備設営、そして大会後のグラウンド原状回復まで含めると、数十億円単位の公費や大会運営費が消費されます。この費用の負担構造が、恒久的な大会誘致における大きな財政的ハードルとなっています。
まとめ:世界に誇るメインスタジアムが抱え続ける構造的課題
国立競技場にサブトラックが存在しないという問題は、単なる設計ミスや見落としではなく、大都市・東京の過密な土地利用と、揺れ動いた国家プロジェクトの予算制約が生み落とした必然的な結果でした。
木材を多用した美しい外観と最新鋭の設備を備え、2025年世界陸上でも世界中のファンを熱狂させた国立競技場。しかしその足元には、「国際基準の陸上競技場でありながら、単体では陸上の公式最高峰大会を開けない」というジレンマが今なお刻まれています。今後この巨大施設を真のレガシーとして次世代へ引き継ぐためには、イベントごとに巨額の仮設費用を投じる自転車操業から脱却し、周辺エリアのまちづくりと調和した現実的な恒久解決策を官民一体で模索し続ける必要があります。 (出典: 国立 競技 場 サブ トラック(Yahoo!ニュース))